「独禁法と私」―その1、慶應義塾大学時代

 1.富山県西砺波郡戸出(といで)で生まれ育った私は、砺波高校を卒業する18才まで戸出で過ごし、その年の昭和45年に慶應義塾大学法学部法律学科に入学しました。
 戸出(現在は高岡市戸出)や砺波には、当時予備校等もなく牧歌的な学生生活を送っており、弁護士や裁判所も見たこともありませんでした。
2.そんな田舎の人間が慶應大学に入り、1年生の頃は日吉台学生ハイツといういわば大学生向けのワンルーム・マンションに入りました。そこで、今の安富慶大教授や吉田医師、石原弁護士、松坂弁護士、松波弁護士らと出会いました。
 当時慶應大学では、司法試験合格者も少く、平均合格年令が28才〜30才位、合格率2〜3%と超難関の国家試験でした。学内の極く真面目な学生が18人会や律法会、さらに伊東教授の民訴法ゼミに入り、司法試験を目指していました。
3.私は、司法試験へのおぼろげな気持はあるものの、学部時代は好きな法律を勉強すればいいと勝手に思い込み、何と当時の司法試験の選択科目にもなっていない経済法(独禁法が中心)の金子晃先生のゼミに入れて頂き、経済法全般の勉強をすることができました。ただ、司法試験との関係では、ある種の異端的存在であったかもしれません。
4.金子ゼミでは、夏にゼミ合宿があり、そこでリチャード・ケイブスの英文の「産業組織論」を原文で読んだことは、今も覚えています。
 独禁法についての大きな疑問、それは、独禁法は市場における競争をいかにワ―カブルにするか、有効競争概念を中心として、あくまでも競争秩序を維持するものであり、個々の事業者や消費者の利益を直接の保護法益とするものではない、とする考えでありました。
経済法の体系の中で中小企業や消費者の権利は、どうなるのか、アメリカの消費者運動の当時の旗手ラルフ・ネーダーの影響もあり、卒論のテーマは「経済法における権利概念の検討」としました。          〈御器谷〉